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ヴィクトリア(、1819年5月24日 - 1901年1月22日)は、イギリス・ハノーヴァー朝の第6代女王(在位:1837年6月20日 - 1901年1月22日)、初代インド女帝(在位:1877年1月1日 - 1901年1月22日)。世界各地を植民地化・半植民地化して繁栄を極めた大英帝国を象徴する女王として知られ、その治世はヴィクトリア朝と呼ばれる。在位は63年7か月にも及び、歴代イギリス国王の中ではエリザベス2世に次ぐ長さである。 == 概要 == イギリス・ハノーヴァー朝第3代国王ジョージ3世の第4王子であるケント公エドワードの一人娘。3人の伯父たちが嫡出子を残さなかったため、1837年に18歳でハノーヴァー朝第6代女王に即位する〔。 ハノーヴァー朝の国王は代々ドイツの邦国ハノーファー王国(元は選帝侯国)の君主を兼ねていたが、ハノーファーではサリカ法による継承法を採っており、女性君主の統治が認められていなかった。そのためハノーファー王位はヴィクトリアでなく叔父エルンスト・アウグストが継ぎ、イギリスとハノーファーの同君連合は解消された〔世界大百科事典「ハノーバー朝」の項目〕〔尾鍋(1984) p.54〕。 はじめホイッグ党の首相メルバーン子爵を偏愛したが、1840年に母方の従弟にあたるザクセン=コーブルク=ゴータ公国の公子アルバートと結婚すると、その忠告に従って王権の中立化に努めるようになった。その後もしばしば政治に影響力を行使しながらも、基本的に議会の状況に基づいて首相を選ぶようになった。国王の政治的影響力の面ではアルバートがヴィクトリアに代わって重きをなすようになっていったが、彼はその権威が絶対的になる前の1861年に薨去した(また同年3月に母ケント公夫人ヴィクトリアを亡くしている)。これにより、イギリスに立憲君主制の道が開かれることとなった。 一方、悲しみにくれるヴィクトリアはその後10年以上にわたって服喪し、公務に姿を見せなくなったが、1870年代に保守党の首相ベンジャミン・ディズレーリに励まされて公務に復帰し、ディズレーリの帝国主義政策を全面的に支援し、大英帝国の最盛期を築き上げた。1876年には「インド女帝」に即位した。ディズレーリを偏愛する一方、ディズレーリと並んでヴィクトリア朝を代表する自由党首相のウィリアム・グラッドストンのことは一貫して嫌っていて、グラッドストンのアイルランド自治法案の阻止に全力を挙げた。晩年には老衰で政治的な活動は少なくなり、立憲君主化が一層進展した。 1901年に崩御し、王位は長男であるエドワード7世に受け継がれた。 ヴィクトリアの63年7か月の治世はヴィクトリア朝と呼ばれ、政治・経済のみならず、文化・技術面でも優れた成果を上げた。この時代のものは、政治、外交、軍事、文学、科学、家具などいずれであれ、「ヴィクトリア朝の〜」と形容をされることが多い〔ベイカー(1997) p.182〕。 この時代、イギリスは世界各地を植民地化して、一大植民地帝国を築き上げた。その名残でヴィクトリア島(カナダ)、ヴィクトリア湖(ケニア・ウガンダ・タンザニア)、ヴィクトリア滝(ジンバブエ・ザンビア)、ヴィクトリア・ハーバー(香港)、ヴィクトリアランド(南極大陸)、ヴィクトリア(世界各地の都市名)、ヴィクトリア・パーク(世界各地の公園)など、女王の名にちなんだ命名も少なくない。ヴィクトリアは帝国主義政策においては最強硬派・主戦論者として政府に発破をかける役割を果たすことが多かったが、彼女の「帝国の母」「慈愛」のイメージは世界各地の植民地の臣民たちを一つに結び付け、大英帝国の維持・拡大に大きな礎となった。 子女が欧州各国の王室・皇室と婚姻を結んだ結果、ヴィクトリアはヨーロッパの祖母と呼ばれるに至った〔朝倉・三浦(1996) p.122〕。例えばドイツ皇帝ヴィルヘルム2世とロシア皇后アレクサンドラ(ロシア皇帝ニコライ2世妃)は孫にあたる〔ワイントラウブ(1993) 下巻 p.524-525〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ヴィクトリア (イギリス女王)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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